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【2024/10/06 14:21 】 |
井端弘和
井端 弘和(いばた ひろかず、1975年5月12日 - )は、中日ドラゴンズに所属するプロ野球選手(内野手)。
目次 [非表示]
1 経歴
2 プレースタイル
3 人物
4 詳細情報
4.1 年度別打撃成績
4.2 年度別守備成績
4.3 背番号
4.4 タイトル・表彰
4.5 個人記録
5 メディア出演
6 脚注
7 関連項目
経歴 [編集]

川崎市立川中島中学校時代までは投手、堀越高等学校時代に夏の甲子園に出場。その後亜細亜大学に進学。東都大学リーグ1部リーグ通算81試合出場、269打数78安打、打率.290、4本塁打、33打点。3季連続ベストナインに選ばれた。2部リーグ通算11試合出場、48打数14安打、打率.291、1本塁打、5打点。1997年のドラフト会議で中日ドラゴンズから5位指名を受け入団(同期には川上憲伸、高橋光信らがいる)。
入団から2年間は二軍生活で、1999年は一軍出場なし、2000年から後半の守備固め、代走としての出場が主であったが、翌2001年から遊撃手のレギュラーに定着して全試合出場を果たして以来、不動の遊撃手として活躍。2004年には、チームの柱としてリーグ優勝に貢献し、自身初となる打率3割とベストナイン、ゴールデングラブ賞を受賞する活躍をみせた。
国際経験は、2001年に台湾で開催されたIBAFワールドカップ(4位)、2002年キューバで開催されたIBAFインターコンチネンタルカップ(準々決勝リーグ敗退)日本代表を経て、2003年アテネオリンピック予選を兼ねたアジア野球選手権では長嶋ジャパンの一員として優勝し、オリンピック出場に貢献した。 2007年年の北京オリンピック予選にも出場し、本戦出場権獲得に貢献した。
2008年8月3日にFA権を取得するも、その日の中日スポーツ朝刊で残留を宣言[1]、2008年12月16日に球団史上最長の5年契約を結ぶ[2]。12月22日、テレビ朝日アナウンサー河野明子と結婚。
肩の故障もあり2009年シーズンから二塁手にコンバートされる予定であったが、井端本人の調整が目の不調により遅れたことに加え、代わって遊撃手を務める予定であった荒木が開幕直前に足を痛めたことで見送られた[3]。調整は遅れていたもののシーズンでは主に1番打者として全試合に出場し、4年ぶりに打率3割以上の成績を残した。
12月3日、社団法人日本プロ野球選手会の理事長に就任した。
2010年6月5日の対ロッテ戦で、1500本安打を達成[4]。この年は予定通り二塁手にコンバート、またチーム方針により6番を任されることが多くなっている。6月11日に登録抹消され、7月15日に一度一軍復帰するも、一度もスタメン出場することなく7月25日に再び登録抹消。10月2日の最終戦にやっと再登録されて復帰した。離脱の理由は公式発表されていないものの、目の異常だったと報道されている[5]。
プレースタイル [編集]

荒木雅博と共にドラゴンズの内野の要であり、荒木と共に2004年から2009年まで6年連続でゴールデングラブ賞を受賞している。荒木との二遊間は黄金の二遊間として知られている。その黄金の二遊間のことを、荒木と井端を合わせて「アライバ」と呼ばれる。
堅守のほかにも、毎年3割前後の打率を残している。四球も選べるので出塁率も安定しており、走者の盗塁をアシストする場面も目立つ。頻繁に二桁盗塁を記録するなど足も速い。更に三振が少なく、バントや右方向への流し打ちもできる器用な選手で主に2番打者として活躍している。
ファウル打ちもうまい。これはセリーグで優勝した1999年に一軍出場0に終わり、チームにないものを自分の武器にしようと思って練習した結果だという。
人物 [編集]

中学時代(城南品川シニア)2年生の時、投手として1安打完封を成し遂げた試合を、偶然、当時評論家であった野村克也が見ており、野村から実家に「堀越(学園高)に行って内野をやらせてみたら」と電話があったことがきっかけで、堀越高校に進学し、1年生で遊撃手のレギュラーになった。現在でも「今の自分があるのは野村さんのおかげ」と語っている。
2006年から地元の川崎市の少年野球のために「井端弘和杯[6]」を主催している。
趣味は競艇。年末年始には、愛知県にある蒲郡競艇場でトークショーに出演するのがここ数年の恒例行事となっている。競艇選手の中では原田幸哉と仲が良い[7]。
名字の「いばた」をもじって「いいバッター」と書かれたボードで応援するファンもいる。
デビュー当時は名前を「いばた かずひろ」と間違えて呼ばれることが多かった。東海テレビの『ドラゴンズHOTスタジオ』に初出演した時も、司会の峰竜太にこう言い間違えられた。
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【2010/11/08 20:17 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
荒木雅博
荒木 雅博(あらき まさひろ、1977年9月13日 - )は、中日ドラゴンズに所属するプロ野球選手(内野手)。
2008年から中日選手会長、2009年には日本プロ野球選手会副会長に就任。
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1 来歴・人物
2 プレースタイル
3 人物
4 詳細情報
4.1 年度別打撃成績
4.2 年度別守備成績
4.3 背番号
4.4 タイトル・表彰
4.5 個人記録
5 メディア出演
6 脚注
7 関連項目
8 外部リンク
来歴・人物 [編集]

俊足巧打と広い守備範囲で知られる[誰?]。1995年のドラフト会議で、福留孝介(近鉄が指名権獲得)・原俊介(巨人が指名権獲得)と、くじに敗れた中日が1位指名(外れの外れ1位)をして入団。
代走・守備固めで起用される時期が続いた後、2001年シーズンにおいて、センターのポジションを勝ち取り、規定打席には届かなかったものの、3割を超える打率をマークして一躍期待の若手として注目される。
その後はスイッチヒッターに挑戦したり、外野やセカンドを行ったり来たりするなどポジションも安定しなかったが、セカンド完全コンバートとなった2004年シーズン、攻撃ではリードオフマンとして39盗塁、1996年にオリックス・ブルーウェーブのイチロー(現シアトル・マリナーズ)が記録した、シーズン1試合4安打以上の日本プロ野球記録(8試合)を塗り替える9度の1試合4安打以上を記録し、守備でも井端弘和との二遊間が落合博満監督から高く評価され[1]、自身初のタイトルとなるベストナイン・ゴールデングラブ賞を受賞する活躍を見せた。その後、ゴールデングラブ賞は2009年まで6年連続で受賞している(井端も同様に6年連続受賞している)。
2009年シーズンより、井端の二塁手コンバートにあわせて荒木は遊撃手を務める予定であったが、井端の調整が目の不調により遅れたことに加え、荒木自身も開幕直前に足を痛めたことで見送られた[2]。 シーズン前半は1番打者とされていたが打撃の調子が上がらず、すぐに2番に変えられた。しかし、2番に起用されてからは徐々に復調し持ち前の粘り強いバッティングが戻ってきた。打率が.270と低いものの、得点圏打率は.343と、チャンスの場面での勝負強さを見せ付けた。ヤクルトの福地寿樹と盗塁王を争っていたが、左手首を痛めて試合を欠場したこともあり、タイトル獲得はならなかった。なお盗塁数はチームトップの37個。
2010年は、再び井端と共にコンバートに挑戦。しかし開幕前に左前脚を負傷し、1999年以来11年ぶりに開幕一軍から外れた。その後4月5日に復帰し、遊撃手へのコンバートが実現した。しかし左前脚の故障の影響もあり、井端と入れ替わり二塁を守った試合もあった。[3]
プレースタイル [編集]

井端弘和とは守備で二遊間、打順では一・二番を組むことから「アライバ」(アライバコンビ)と呼ばれる。[1]
守備では、落合監督が「守備範囲は世界一」と評す鉄壁の守備でセンターラインを固めるチームの要となっている。また、球団の事情で一塁手には外国人選手が入ることが多く、右翼方向へのゴロ打球の守備に不安が残ってしまうため、そのカバー役も担っている。肩を傷めた影響もあるが、スローイングは若干不安定な面もある。タイロン・ウッズが一塁守備を担っていた2005年~2008年は、ウッズがバウンドした送球をほとんど捕球できなかったため、荒木を含む他の野手にエラーが記録されることも多かった。また、外野手としての経験も豊富なため、フライの捕球も安定感がある。
打撃面では、好球必打を心がける積極的な打法である。そのため三振は比較的少なくなっているものの、四球も少なく、出塁率が3割を切る年度もある。常時.350~.400を記録する井端に比べて出塁率は低い。また本人が「不器用」と言っているように、実際に送りバントを失敗したり、ファールした後になんとかバント成功というケースもよく見られる。固め打ちで率を稼ぐタイプであり、複数安打を記録する試合も多い反面、無安打の試合も多い。
非常に足が速く走塁技術も優れている。初めて30盗塁を達成した2004年から2009年までは30盗塁を達成し続けており、成功率も約8割をキープしている。右打者ということもあるがしっかり振り切る打法であるため、俊足のわりには内野安打、セーフティーバントが少なく併殺打も多い。
人物 [編集]

踊る大捜査線のファンで、DVDを全て所有しているほど。[4]。その踊るシリーズに出演している柳葉敏郎との親交が深く[4]、2010年7月3日の試合で柳葉が始球式を務めビジターの1番打者だった荒木が打席に立った。 また、7月6日に柳葉が出演した笑っていいとも!テレフォンショッキングでは、同僚の森野将彦、山井大介と共に花を贈っている。
【2010/11/08 20:17 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
堂上直倫
堂上 直倫(どのうえ なおみち、1988年9月23日 - )は、中日ドラゴンズに所属するプロ野球選手(内野手)。
高校時代は超高校級スラッガー、尾張のプリンスとも呼ばれた。
父は元中日ドラゴンズ投手の堂上照、兄の堂上剛裕も中日ドラゴンズ所属の外野手。
目次 [非表示]
1 経歴
1.1 プロ入り前
1.2 プロ入り後
2 詳細情報
2.1 年度別打撃成績
2.2 背番号
2.3 個人記録
3 脚注
4 関連項目
経歴 [編集]

プロ入り前 [編集]
小学校時代に、「名古屋北リトル」で野球を始めた。そこでは、投手のほかにも遊撃手の守備についた。春日井市立知多中学校在学時にも、「名古屋北シニア」で遊撃手の守備についたとのこと。2003年、ナゴヤドームで行われたドラゴンズのファン感謝デーで「リトルシニア東海選抜」の4番・遊撃手で出場し、投手を務めた福留孝介から左翼席へ本塁打を放った。その際、インタビューで「僕もずっと中日ファン。いつかはここでプレーしたいと思っている」と語っており、現実のものとなった。
中学卒業後は、野球の名門校として知られる愛知工業大学名電高等学校に入学。1年生からレギュラーを獲得し、2005年春の第77回選抜高等学校野球大会では、4番に座り2本塁打を記録し優勝に貢献した。同年9月には全日本高校選抜として、韓国で行われた第六回アジアAAA選手権大会に参加し、2本塁打で最多本塁打のタイトルを獲得。ポジションは遊撃手、選抜優勝時には三塁手として出場した。高校通算55本塁打で、他校の捕手から「どこに投げても打たれるから投げる球が無い」と言わせるほどのバッティングセンスの持ち主である。
2005年夏の甲子園に向けた愛知県大会では、豊田大谷高校とのナゴヤドームでの決勝戦でホームランを放った。2006年夏の甲子園に向けた愛知県大会では、10四球と勝負を避けられる場面が多かったが、14打数7安打と打率5割を記録し県大会優勝の原動力として活躍。しかし、本大会では初戦敗退を喫した。高校時代の甲子園3大会(2005年春、2005年夏、2006年夏)の通算打率は.480。
2006年ドラフト会議にて、中日、阪神、巨人の3球団から1巡目指名を受け、中日が抽選で交渉権を獲得したため、父・兄と同じチームに入ることになった。親子3人がプロ野球選手かつ同一球団に所属するということは史上初であった[1]。なおこの時の阪神ハズレ1位は野原将志、巨人ハズレ1位は坂本勇人である。背番号は24。
プロ入り後 [編集]
ルーキーイヤーの2007年は結局一軍出場はなかったが、ウエスタンリーグでは出場試合数の8割近くを4番・三塁手で先発出場した。打率は低迷したが、本塁打はチーム3位、打点はチーム2位と、長打力と勝負強さはあった。またシーズン終了後、福留孝介がシカゴ・カブスへ移籍したことにより、背番号を24から1に変更した。
2008年も二軍で開幕を迎えるが、北京オリンピックで荒木雅博、森野将彦が抜けたことにより若手のテストを行った結果、8月3日に初の一軍昇格を果たす。しかし、3試合に出場し、1打数無安打で7日後に二軍に降格。以後一軍に昇格することはなかった。
2009年3月1日の日本ハムとのオープン戦で金森敬之からオープン戦初本塁打となる2点本塁打を放つ。また、この2打席前には兄・剛裕も本塁打を放っており、オープン戦で同一イニングのアベック弾は史上初であったが[2]、開幕一軍を果たすことはできなかった。
2010年、二塁を守る井端弘和が故障で離脱したことから、その代役に指名される。井端の登録抹消日の6月11日から、ファームの試合に中学2年生時以来という二塁手[3]として出場するようになり、6月16日に一軍昇格。その日の対日本ハム戦から先発の機会が与えられた。6月18日の対巨人戦(東京ドーム)でプロ入り初安打、6月27日の対広島戦(ナゴヤドーム)でプロ入り初本塁打を放つなど最終的に82試合出場で打率.263・5HR・30打点とブレーク。急造の二塁守備も失策2と安定していた。試合終盤の守備固めでは岩崎達郎が二塁を守り、堂上は三塁を守ることが多かった。8月6日の阪神戦には、兄の剛裕と共に、兄弟初めてのお立ち台に上がった。また、10月30日に開幕した、日本シリーズも第1戦に井端の後のセカンドとして途中出場。82年出場の父・照、07年出場の兄・剛裕と共に第1戦での親子3人揃っての途中出場は史上初である。
【2010/11/08 20:16 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
踊り505
2003年9月26日、復帰第2戦でフリオ・セサール・アビラ(メキシコ)と対戦し、10回判定勝ちを収めるも、その後は負傷した左脚の回復が思わしくなく、再び長いブランクに入った。
2005年4月16日、日本武道館で行われたWBC世界バンタム級の防衛試合でウィラポンが長谷川穂積に判定負けを喫した。新王者長谷川への表彰中、辰吉がリングに上がり、インタビュー中の長谷川を無視してウィラポンの片手をあげ、そしてリングを一周した。リングを一周した後、辰吉はウィラポンと共に立ち去り、チャンピオンベルトを長谷川に渡さずベルトも一緒に控え室へと帰った。この行為にファンからは辰吉への非難の声が大きい[1]。
現在プロボクサーを目指している長男・寿希也(じゅきや)とともに奇跡の王座返り咲きを信じて練習を続けており、2008年5月には一部メディアで同年8月にタイで復帰戦が行われる可能性があるという報道がなされた[2]。
しかし、国内でのリング復帰期限である2008年9月25日を迎え、さらに大阪帝拳ジムが辰吉の試合を組む意思がないことを再三に亘って明言しているものの、辰吉本人は一貫して現役に拘っており、「オレはどこでも試合する」と意欲満々である[3]。
そして、同年10月26日、タイ・バンコクのラジャダムナン・スタジアムで復帰戦を強行。地元の新鋭パランチャイ・チュワタナに2回TKO勝ちを収め、5年ぶりの再起を果たした。
この試合に関して、日本ボクシングコミッション(JBC)は試合から1週間後の11月2日、タイ・チュワタナジムのアンモ会長と対談し、JBCライセンス保持者以外の試合禁止を要請。
12月、タイ国内ランキングでバンタム級1位にランクイン。これに対しJBC側は不快感を示し、近日中にタイ側に質問状を送ることを明らかにした。同28日、ライセンス失効後初めてJBCと対談。JBC側は所属する大阪帝拳ジムが国外での試合も禁止したいとの意向を持っていると説明をした他、WBCと提携している米国の医療機関の専門的な検査を受けるように提案。それに対し、辰吉側は「5年も試合をしてなかったので、今はどんどん試合をしてコンディションを上げていくことが大事。検査の意味は分かるけど、(引退を)決断することはできない」とあくまで現役続行にこだわる姿勢を見せている。
2009年3月8日、前戦と同じラジャダムナン・スタジアムに於いて復帰第2戦。スーパーバンタム級のタイ国内ランキング1位サーカイ・ジョッキージム(19歳/11戦10勝(5KO)1敗)と対戦するも、3回にダウンを奪われた末の7回TKO負け。世界戦以外の試合での初黒星(通算7敗目)を喫した。試合終了後、辰吉は「俺はまだ終わっとらん」とあくまで現役に拘り、今後もリングに上がり続けることを表明しているが、(同年末現在)次戦開催の目処は立っていない。
エピソード [編集]

ダウンタウンの松本人志とは、親友として知られる。その縁で「ダウンタウンDX」などにもゲスト出演している。松本によると辰吉が電話口でアニメについて一方的に熱く語るため、松本は相槌をうつだけの電話応対に回っている。
ダウンタウンの番組にゲストとして出演した際、「地球最後の日に何をする?」というお題に対して、「浜田を一日中シバき回す。」という(辰吉以外の人間には絶対不可能な)ボケ回答をする。同じくゲスト出演していた関根勤に「死んじゃうよ。一日もたないじゃん。」と言われると「そこは、持たすように。」と回答した。
交友範囲の広いことで知られる彼だが、特に岸本加世子には絶大な信頼をおいており、実の姉のように慕っている。
北野武と対談を通じて懇意となる。辰吉が王座から陥落しスランプに陥っていたころ、激励の意味で自筆の絵を送った。そこに書かれていた言葉は、映画「キッズ・リターン」におけるエンディングの台詞になっている。
布袋寅泰、イチローとも仲がよい(度々、会場まで試合観戦に訪れている。2008年10月にタイで復帰戦を強行した際は現地で布袋から激励を受けた)。
ボクシング漫画「はじめの一歩」では何度も扉ページに登場し、「勝っても負けても彼ほど人を感動させるボクサーはいない」と評されている。またアニメ全般についても話し出すと止まらないくらい好んでいるという。
公共広告機構(現:ACジャパン)のCMに出演し「いじめはすごかったですよ。親が泣くくらいでしたからね」などと幼年期に自身がいじめに遭っていた事実を告白しているが、いじめを克服した後、小学生から中学生時代までにやった喧嘩では負け知らず。不良少年としての"武勇伝"は今でも伝説になっているという。
中学時代は皆勤賞、3年間一度も欠席がなかったという。
中学生の頃、下校途中にヤクザに車を横付けされからまれたことがある。その時、「おっちゃん、そんなにすごまんとってぇや」と言いながら車に近づき、隙を突いてキーを抜き取り道路脇の草むらに向かって投げつけ、笑いながら走って逃げたことがあるという。
本格的にボクシングを始めて、わずか3回目のスパーリングで国体2位の選手を左ボディブロー一発で倒したことにより辰吉はボクサーとして世間の注目を集め始める。しかし、アマチュア時代、試合に敗れた精神的ショックからジムを飛び出し、半年ほどホームレス生活を送る。本人曰く、この間、自動販売機の釣銭返却口を漁ったり、ダンボールハウスで野宿したりと散々な日々を過ごしていたとのこと。そんな中、偶然立ち寄った喫茶店で現在の夫人と出会ったことが、ホームレス生活から立ち直り競技に復帰するきっかけとなった。
1987年の沖縄県での海邦国体の会場通路でピューマ渡久地と大喧嘩をしそうだったことがある(理由は沖縄出身で発音に訛りのある渡久地が「文句あっか」と言ったのを辰吉が「儲かってまっか?」と聞き間違えたから)。このエピソードはボクシングファンのあいだでは知られた話だが、渡久地は引退後インタビューに答えて、(国体の)大阪代表が騒いでいたので怒鳴っただけで、辰吉と喧嘩になったことはないと証言している。
非常に練習量の多いボクサーとしても知られている。
タイトルマッチでは「王者は赤いトランクスを着用して戦う」という慣例がある中、辰吉は赤いトランクスを着用して臨んだ試合を落とすことが多かったため、1997年の王者返り咲き以後の防衛戦には青いトランクスを着用した王者として臨んだ。
レフェリーのリチャード・スチールに「オスカー・デ・ラ・ホーヤには若い女性ファンが何人いるか知らないが、あれだけ多くの青少年を夢中にさせるという点では、辰吉が世界一だと確信している」と言わしめた。
現在は、大阪帝拳ジムにて現役復帰を期して練習に励む傍ら、実子である辰吉寿希也のトレーナーを務めている。辰吉自身は再三に亘ってジムサイドに自分の試合を組むよう懇願したが、その度に、大阪帝拳ジムの吉井清前会長は「お前の体が心配だから試合は組めない」と辰吉を諭していた。
ライバルであったビクトル・ラバナレスのことを「友人である」と語る。そのことについてラバナレスは、「友人だったらもう一度俺と試合をしてくれ」と、発言した。
初めて世界タイトルを獲ったグレグ・リチャードソン戦では、初回に放った左ジャブがリチャードソンの目に入り、ダブルビジョン(物が二重に見える)になったとリチャードソンが、後に発言している。
初めて世界タイトルを獲ったリチャードソン戦の試合直後に、第一声でテレビカメラに向かって、「父ちゃん、やったで!」とコメントした。
ポーリー・アヤラと対戦した際、バッティングで眉毛あたりを深く切り、試合を止められてしまう。その際、負けたものと勘違いしたのか、全国テレビ生放送中にもかかわらず、子供のように泣きじゃくってしまった。
辰吉の人気はすさまじく、辰吉を見て、ボクシングを始めた人間はかなり多い。その中には、世界チャンピオンになった畑山隆則もいる。ただ、畑山が世界を獲った際に、辰吉の名前を騙り、「ようやったなあ、おめでとう!」と辰吉になりきって、悪戯電話をかけた人間が存在する。そのためか、畑山とは誤解が生じたようで、畑山がさんまのまんまに出演した際には、「辰吉なんて、片手で倒せる」と言われてしまう。
今でこそ「負けても引退なんか考えたことがない」と語っているが、ラバナレスに負けるまではことあるごとに「負けたら引退」と語っていた。これは本人によればそれぐらいの気持ちでいなければ試合に勝てないからとのことである。
ボクシングアナリストの増田茂によれば、辰吉はオーソドックススタイルであるが実は左利きであることを明かしている。そのために辰吉は右でなく左のパンチが強いとのことである。
辰吉が世界王者になる前、日本人として具志堅の記録を追い越し最短で世界を獲ることに価値を見出すのではなく、辰吉の先々のことを考え、じっくりキャリアを積ますべきだという声が多かった。トーレス戦後、特にその声は強くなる。辰吉自身も新人王、日本、東洋太平洋と順番にタイトルを獲ってから世界にいきたいと語っていた。
愛車はLS400[4]。
ボクサーになっていなければ、ヤクザになっていたと語っていた。
【2010/11/07 16:26 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
踊りのジョー
辰吉 丈一郎(たつよし じょういちろう、男性、1970年5月15日 - )は、日本のプロボクサー。ただし、日本では元ボクサー(後述)。岡山県倉敷市出身。大阪帝拳ジム所属。第50代日本バンタム級、第18代WBC世界バンタム級、第24代WBC世界バンタム級王者。正しくは「丈`一郎」のように「丈」の右上に点を書く(機種によっては表示可能→「」)。愛称は浪速のジョー。自身が幼年期にいじめられっ子であった過去を持つ。血液型はB型。両手の握力は50kg以上、左の方が少しだけ強い。入場曲は死亡遊戯メインテーマ(なお、一時期、友人の元光GENJI・諸星和己から提供されたオリジナルのテーマ曲「JOE」を使用したこともあった)。
目次 [非表示]
1 来歴
2 エピソード
3 戦績
4 獲得タイトル
5 現役復帰の経緯と今後の展望
6 脚注
7 関連項目
8 外部リンク
来歴 [編集]

ボクシングファンであった父・粂二(くめじ)より幼少のころからボクシングを仕込まれた。中学時代の担任教諭の勧めで、中学卒業と同時に片道の電車代だけを持って大阪に渡り、大阪帝拳ジムに入門した。
粂二は辰吉にボクシング(喧嘩)の稽古を付けていた時に、構える手の高さは胸の前あたりの方が、相手全体を見渡したり攻撃をかわしやすく、また、喧嘩の相手を掴んだり凶器を奪いやすいと教えた。辰吉の無意識にガードを下げる癖はそこに由来すると考えられる。辰吉自身の解釈は、喧嘩では相手がオーソドックスの場合に右足で蹴ってくる場合が多く、左手を下げておくことで蹴りを払い、右手でパンチを繰り出すことができるからだと映画「BOXER JOE」で語っている。
なお、この時期の辰吉は、サウナや立ち食いうどん屋、かまぼこ屋などでバイトをしながらボクシングに打ち込んでいた。
1987年、17歳で全日本社会人選手権バンタム級優勝。ソウルオリンピックの有力候補だったが、体調不良により予選で敗退した。この後、諸事情によりジムを離れて半ば放浪同然の生活を送ったが、後の専属トレーナー大久保淳一が主催するジムでのトレーニングを経て大阪帝拳に復帰。アマで数試合をこなした後、プロ転向する。この頃から辰吉の試合記事は関西地区のスポーツ新聞に写真入りで報じられており、その才能は早くから注目の的だった。アマチュア通算成績は19戦18勝(18KO・RSC) 1敗。
1989年9月29日、プロデビュー(6回戦)。韓国の国内ランカー崔相勉を2回KOに降す。
1990年6月28日、3戦目。WBCインターナショナルバンタム級王者サムエル・デュラン(フィリピン)とノンタイトル戦を行い、7回KO勝ち。
同年9月11日、4戦目で日本王座初挑戦。日本バンタム級王者岡部繁を4回KOに降し、王座獲得に成功。
1991年2月17日、6戦目。世界ランカーアブラハム・トーレス(ベネズエラ)とノンタイトル10回戦を行い、引き分け。トーレスのジャブに最後まで苦しみ、「辰吉が負けていた」との声が出るほどの大苦戦(トーレスもリング上で寝転がり判定に抗議)。当初、この試合の後、国内最短となる7戦目で世界挑戦を予定していた辰吉陣営だったが、トーレス戦での苦戦を目の当たりにし、もう1試合ノンタイトル戦をはさむこととなる。
1991年5月19日、1階級下(ジュニアバンタム級=現・スーパーフライ級)の世界ランカーレイ・パショネス(フィリピン)と対戦。アウトボックスで相手を翻弄し、10回判定勝ち。辰吉のフットワークとジャブを駆使して相手を寄せ付けずにアウトボクシングした試合を評価する声が多かったが、当の本人はKOできなかった悔しさからリング上で涙をこぼす。
1991年9月19日、世界初挑戦。WBC世界バンタム級王者グレグ・リチャードソン(米国)に挑む。アマで275戦、プロで33戦のキャリアを誇る王者相手に終始優位に試合を進め、10回終了TKO勝ち。国内最短新記録となる8戦目で世界王座奪取に成功した。平成デビューのボクサーとして初の世界タイトル獲得でもある。しかし、同年12月、左眼の異常を訴え、大阪市内の病院で検査。結果、「網膜裂孔」の診断を受け、そのまま入院・手術。そのため、翌1992年2月6日に予定されていた初防衛戦(対李勇勲=韓国)は中止となり、長期間の休養を強いられることとなる。
1992年9月17日、王座奪取から丸1年ぶりの初防衛戦。休養中にWBC世界バンタム級暫定王座に就いたビクトル・ラバナレス(メキシコ)と統一戦を戦うが、9回TKOに敗れ王座陥落。プロ初黒星を喫した。
その後1戦をはさみ、1993年7月22日、世界再挑戦。当初、3月にラバナレスを降してWBC世界バンタム級王座を獲得した辺丁一(韓国)に挑むことになっていたが、辺が5月の初防衛戦で左手を骨折。そのため、同級暫定王座決定戦としてラバナレスと再戦。フルラウンドにわたる死闘の末、僅差ながら判定勝ち。10か月前の雪辱を果たすと同時に、世界王座返り咲きを果たした。その後、11月25日に正規王者・辺との統一戦が組まれたが、それに向けてトレーニングを重ねていた9月、再び左眼の異常を訴える。検査の結果、今度は網膜剥離が判明。日本ボクシングコミッション(JBC)ルールにより試合ができない身となり、事実上引退の危機に(暫定王座も返上)。
手術は無事に成功。退院後、現役続行の意思を表明し、その道を模索することとなる。その結果、帝拳プロモーション会長・本田明彦等の尽力も有り、1994年7月2日、JBC管轄外のハワイで復帰戦を強行。4月にWBC世界バンタム級王座に挑戦したホセフィノ・スアレス(メキシコ)を3回KOに降す。この勝利でWBCから返上していた暫定王座を再び与えられた。JBCも特例で辰吉の現役続行を許可。
現役続行が許可されたことで、同年12月4日、名古屋市総合体育館レインボーホール(現・日本ガイシホール)でWBC世界バンタム級正規王者薬師寺保栄との統一戦が実現(薬師寺は前年12月、辰吉の代役という形で辺に挑戦し、12回判定勝ち。王座獲得に成功し、これまで2度の防衛に成功している)。この試合は彼のキャリアの中でも最大の注目を集め、圧倒的優位を予想されたが、フルラウンドにわたる死闘の末、12回判定負けを喫し暫定王座から陥落。現役続行の条件として「統一戦に敗れた場合は即座に引退」が掲げられていたため、再度引退の危機に立たされる。
しかし、ここでも引退を拒否。1995年、米国・ラスベガスでノンタイトル戦2試合を強行。遂にJBCも折れ、辰吉は世界戦に限り国内で試合を行えることとなった(その後、「世界戦に準ずる試合」も追加)。
1996年3月3日、2階級制覇を目指し、WBC世界ジュニアフェザー級(現・スーパーバンタム級)王者ダニエル・サラゴサ(メキシコ)に挑戦。しかし、初回からほぼ一方的に打ち込まれ、11回負傷TKO負け。翌1997年4月14日、再度サラゴサに挑むがここでも12回判定で完敗。「もはや世界王座返り咲きは無理」という声も聞かれるようになった。
同年11月22日、通算5度目の世界挑戦。元のバンタム級に戻し、WBC世界同王者のシリモンコン・ナコントンパークビュー(タイ)に挑む。5回に王者からダウンを奪ったものの、6回以降は王者の「捨て身」とも言える反撃であわや逆転KO負けというところまで追い詰められる。しかし、迎えた7回、左ボディブローで2度目のダウンを奪う。辛くも立ち上がった王者を連打で追撃し、レフェリーストップ。この瞬間、約3年ぶりの世界王座返り咲きを果たした。試合後のインタビューでは「ファンのために試合をしているわけではないのに、これだけ応援してくれてありがとう」と涙ながらに答えると、ファンから総立ちで歓声・祝福を受けた。
1998年3月8日にはホセ・ラファエル・ソーサ(アルゼンチン)、8月23日には同級1位の指名挑戦者ポーリー・アヤラ(米国)の挑戦を退け、2度目の防衛に成功。
同年12月29日、元WBA世界バンタム級王者でもあるウィラポン・ナコンルアンプロモーション(タイ)を相手に3度目の防衛戦。序盤こそ互角の展開だったが、回が進むにつれ次第に挑戦者がペースアップ。そして、迎えた6回、挑戦者の左をまともに浴び、プロ2戦目以来のダウン。辛くも立ち上がったものの、挑戦者の激しい追撃に襲われる。そして、最後は挑戦者の右ストレートを左のこめかみに受け、仰向けに崩れ落ちた。
1999年8月29日、王者・挑戦者の立場を入れ替えてのウィラポンとの再戦。開始当初から一方的に打ち込まれ、最後は7回、レフェリーストップ(同時にセコンドからも「棄権」を示すタオルが投げ入れられた)によるTKO負けで雪辱ならず。試合後、「普通のお父っつあんに戻ります」と現役引退を表明した。
しかし、日増しに現役続行への思いが強まり、後に引退表明を撤回。復帰へ向けて始動するも、周囲の反対もあり、再起まで3年以上もの期間を要する。
2002年12月15日、実に3年4か月ぶりの復帰戦。元WBAフライ級王者のセーン・ソー・プルンチット(タイ)を相手に復帰戦を行い、7回TKO勝ちを収めた。
【2010/11/07 16:25 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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