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【2024/10/06 16:30 】 |
踊り505
2003年9月26日、復帰第2戦でフリオ・セサール・アビラ(メキシコ)と対戦し、10回判定勝ちを収めるも、その後は負傷した左脚の回復が思わしくなく、再び長いブランクに入った。
2005年4月16日、日本武道館で行われたWBC世界バンタム級の防衛試合でウィラポンが長谷川穂積に判定負けを喫した。新王者長谷川への表彰中、辰吉がリングに上がり、インタビュー中の長谷川を無視してウィラポンの片手をあげ、そしてリングを一周した。リングを一周した後、辰吉はウィラポンと共に立ち去り、チャンピオンベルトを長谷川に渡さずベルトも一緒に控え室へと帰った。この行為にファンからは辰吉への非難の声が大きい[1]。
現在プロボクサーを目指している長男・寿希也(じゅきや)とともに奇跡の王座返り咲きを信じて練習を続けており、2008年5月には一部メディアで同年8月にタイで復帰戦が行われる可能性があるという報道がなされた[2]。
しかし、国内でのリング復帰期限である2008年9月25日を迎え、さらに大阪帝拳ジムが辰吉の試合を組む意思がないことを再三に亘って明言しているものの、辰吉本人は一貫して現役に拘っており、「オレはどこでも試合する」と意欲満々である[3]。
そして、同年10月26日、タイ・バンコクのラジャダムナン・スタジアムで復帰戦を強行。地元の新鋭パランチャイ・チュワタナに2回TKO勝ちを収め、5年ぶりの再起を果たした。
この試合に関して、日本ボクシングコミッション(JBC)は試合から1週間後の11月2日、タイ・チュワタナジムのアンモ会長と対談し、JBCライセンス保持者以外の試合禁止を要請。
12月、タイ国内ランキングでバンタム級1位にランクイン。これに対しJBC側は不快感を示し、近日中にタイ側に質問状を送ることを明らかにした。同28日、ライセンス失効後初めてJBCと対談。JBC側は所属する大阪帝拳ジムが国外での試合も禁止したいとの意向を持っていると説明をした他、WBCと提携している米国の医療機関の専門的な検査を受けるように提案。それに対し、辰吉側は「5年も試合をしてなかったので、今はどんどん試合をしてコンディションを上げていくことが大事。検査の意味は分かるけど、(引退を)決断することはできない」とあくまで現役続行にこだわる姿勢を見せている。
2009年3月8日、前戦と同じラジャダムナン・スタジアムに於いて復帰第2戦。スーパーバンタム級のタイ国内ランキング1位サーカイ・ジョッキージム(19歳/11戦10勝(5KO)1敗)と対戦するも、3回にダウンを奪われた末の7回TKO負け。世界戦以外の試合での初黒星(通算7敗目)を喫した。試合終了後、辰吉は「俺はまだ終わっとらん」とあくまで現役に拘り、今後もリングに上がり続けることを表明しているが、(同年末現在)次戦開催の目処は立っていない。
エピソード [編集]

ダウンタウンの松本人志とは、親友として知られる。その縁で「ダウンタウンDX」などにもゲスト出演している。松本によると辰吉が電話口でアニメについて一方的に熱く語るため、松本は相槌をうつだけの電話応対に回っている。
ダウンタウンの番組にゲストとして出演した際、「地球最後の日に何をする?」というお題に対して、「浜田を一日中シバき回す。」という(辰吉以外の人間には絶対不可能な)ボケ回答をする。同じくゲスト出演していた関根勤に「死んじゃうよ。一日もたないじゃん。」と言われると「そこは、持たすように。」と回答した。
交友範囲の広いことで知られる彼だが、特に岸本加世子には絶大な信頼をおいており、実の姉のように慕っている。
北野武と対談を通じて懇意となる。辰吉が王座から陥落しスランプに陥っていたころ、激励の意味で自筆の絵を送った。そこに書かれていた言葉は、映画「キッズ・リターン」におけるエンディングの台詞になっている。
布袋寅泰、イチローとも仲がよい(度々、会場まで試合観戦に訪れている。2008年10月にタイで復帰戦を強行した際は現地で布袋から激励を受けた)。
ボクシング漫画「はじめの一歩」では何度も扉ページに登場し、「勝っても負けても彼ほど人を感動させるボクサーはいない」と評されている。またアニメ全般についても話し出すと止まらないくらい好んでいるという。
公共広告機構(現:ACジャパン)のCMに出演し「いじめはすごかったですよ。親が泣くくらいでしたからね」などと幼年期に自身がいじめに遭っていた事実を告白しているが、いじめを克服した後、小学生から中学生時代までにやった喧嘩では負け知らず。不良少年としての"武勇伝"は今でも伝説になっているという。
中学時代は皆勤賞、3年間一度も欠席がなかったという。
中学生の頃、下校途中にヤクザに車を横付けされからまれたことがある。その時、「おっちゃん、そんなにすごまんとってぇや」と言いながら車に近づき、隙を突いてキーを抜き取り道路脇の草むらに向かって投げつけ、笑いながら走って逃げたことがあるという。
本格的にボクシングを始めて、わずか3回目のスパーリングで国体2位の選手を左ボディブロー一発で倒したことにより辰吉はボクサーとして世間の注目を集め始める。しかし、アマチュア時代、試合に敗れた精神的ショックからジムを飛び出し、半年ほどホームレス生活を送る。本人曰く、この間、自動販売機の釣銭返却口を漁ったり、ダンボールハウスで野宿したりと散々な日々を過ごしていたとのこと。そんな中、偶然立ち寄った喫茶店で現在の夫人と出会ったことが、ホームレス生活から立ち直り競技に復帰するきっかけとなった。
1987年の沖縄県での海邦国体の会場通路でピューマ渡久地と大喧嘩をしそうだったことがある(理由は沖縄出身で発音に訛りのある渡久地が「文句あっか」と言ったのを辰吉が「儲かってまっか?」と聞き間違えたから)。このエピソードはボクシングファンのあいだでは知られた話だが、渡久地は引退後インタビューに答えて、(国体の)大阪代表が騒いでいたので怒鳴っただけで、辰吉と喧嘩になったことはないと証言している。
非常に練習量の多いボクサーとしても知られている。
タイトルマッチでは「王者は赤いトランクスを着用して戦う」という慣例がある中、辰吉は赤いトランクスを着用して臨んだ試合を落とすことが多かったため、1997年の王者返り咲き以後の防衛戦には青いトランクスを着用した王者として臨んだ。
レフェリーのリチャード・スチールに「オスカー・デ・ラ・ホーヤには若い女性ファンが何人いるか知らないが、あれだけ多くの青少年を夢中にさせるという点では、辰吉が世界一だと確信している」と言わしめた。
現在は、大阪帝拳ジムにて現役復帰を期して練習に励む傍ら、実子である辰吉寿希也のトレーナーを務めている。辰吉自身は再三に亘ってジムサイドに自分の試合を組むよう懇願したが、その度に、大阪帝拳ジムの吉井清前会長は「お前の体が心配だから試合は組めない」と辰吉を諭していた。
ライバルであったビクトル・ラバナレスのことを「友人である」と語る。そのことについてラバナレスは、「友人だったらもう一度俺と試合をしてくれ」と、発言した。
初めて世界タイトルを獲ったグレグ・リチャードソン戦では、初回に放った左ジャブがリチャードソンの目に入り、ダブルビジョン(物が二重に見える)になったとリチャードソンが、後に発言している。
初めて世界タイトルを獲ったリチャードソン戦の試合直後に、第一声でテレビカメラに向かって、「父ちゃん、やったで!」とコメントした。
ポーリー・アヤラと対戦した際、バッティングで眉毛あたりを深く切り、試合を止められてしまう。その際、負けたものと勘違いしたのか、全国テレビ生放送中にもかかわらず、子供のように泣きじゃくってしまった。
辰吉の人気はすさまじく、辰吉を見て、ボクシングを始めた人間はかなり多い。その中には、世界チャンピオンになった畑山隆則もいる。ただ、畑山が世界を獲った際に、辰吉の名前を騙り、「ようやったなあ、おめでとう!」と辰吉になりきって、悪戯電話をかけた人間が存在する。そのためか、畑山とは誤解が生じたようで、畑山がさんまのまんまに出演した際には、「辰吉なんて、片手で倒せる」と言われてしまう。
今でこそ「負けても引退なんか考えたことがない」と語っているが、ラバナレスに負けるまではことあるごとに「負けたら引退」と語っていた。これは本人によればそれぐらいの気持ちでいなければ試合に勝てないからとのことである。
ボクシングアナリストの増田茂によれば、辰吉はオーソドックススタイルであるが実は左利きであることを明かしている。そのために辰吉は右でなく左のパンチが強いとのことである。
辰吉が世界王者になる前、日本人として具志堅の記録を追い越し最短で世界を獲ることに価値を見出すのではなく、辰吉の先々のことを考え、じっくりキャリアを積ますべきだという声が多かった。トーレス戦後、特にその声は強くなる。辰吉自身も新人王、日本、東洋太平洋と順番にタイトルを獲ってから世界にいきたいと語っていた。
愛車はLS400[4]。
ボクサーになっていなければ、ヤクザになっていたと語っていた。
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【2010/11/07 16:26 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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