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辰吉 丈一郎(たつよし じょういちろう、男性、1970年5月15日 - )は、日本のプロボクサー。ただし、日本では元ボクサー(後述)。岡山県倉敷市出身。大阪帝拳ジム所属。第50代日本バンタム級、第18代WBC世界バンタム級、第24代WBC世界バンタム級王者。正しくは「丈`一郎」のように「丈」の右上に点を書く(機種によっては表示可能→「」)。愛称は浪速のジョー。自身が幼年期にいじめられっ子であった過去を持つ。血液型はB型。両手の握力は50kg以上、左の方が少しだけ強い。入場曲は死亡遊戯メインテーマ(なお、一時期、友人の元光GENJI・諸星和己から提供されたオリジナルのテーマ曲「JOE」を使用したこともあった)。
目次 [非表示] 1 来歴 2 エピソード 3 戦績 4 獲得タイトル 5 現役復帰の経緯と今後の展望 6 脚注 7 関連項目 8 外部リンク 来歴 [編集] ボクシングファンであった父・粂二(くめじ)より幼少のころからボクシングを仕込まれた。中学時代の担任教諭の勧めで、中学卒業と同時に片道の電車代だけを持って大阪に渡り、大阪帝拳ジムに入門した。 粂二は辰吉にボクシング(喧嘩)の稽古を付けていた時に、構える手の高さは胸の前あたりの方が、相手全体を見渡したり攻撃をかわしやすく、また、喧嘩の相手を掴んだり凶器を奪いやすいと教えた。辰吉の無意識にガードを下げる癖はそこに由来すると考えられる。辰吉自身の解釈は、喧嘩では相手がオーソドックスの場合に右足で蹴ってくる場合が多く、左手を下げておくことで蹴りを払い、右手でパンチを繰り出すことができるからだと映画「BOXER JOE」で語っている。 なお、この時期の辰吉は、サウナや立ち食いうどん屋、かまぼこ屋などでバイトをしながらボクシングに打ち込んでいた。 1987年、17歳で全日本社会人選手権バンタム級優勝。ソウルオリンピックの有力候補だったが、体調不良により予選で敗退した。この後、諸事情によりジムを離れて半ば放浪同然の生活を送ったが、後の専属トレーナー大久保淳一が主催するジムでのトレーニングを経て大阪帝拳に復帰。アマで数試合をこなした後、プロ転向する。この頃から辰吉の試合記事は関西地区のスポーツ新聞に写真入りで報じられており、その才能は早くから注目の的だった。アマチュア通算成績は19戦18勝(18KO・RSC) 1敗。 1989年9月29日、プロデビュー(6回戦)。韓国の国内ランカー崔相勉を2回KOに降す。 1990年6月28日、3戦目。WBCインターナショナルバンタム級王者サムエル・デュラン(フィリピン)とノンタイトル戦を行い、7回KO勝ち。 同年9月11日、4戦目で日本王座初挑戦。日本バンタム級王者岡部繁を4回KOに降し、王座獲得に成功。 1991年2月17日、6戦目。世界ランカーアブラハム・トーレス(ベネズエラ)とノンタイトル10回戦を行い、引き分け。トーレスのジャブに最後まで苦しみ、「辰吉が負けていた」との声が出るほどの大苦戦(トーレスもリング上で寝転がり判定に抗議)。当初、この試合の後、国内最短となる7戦目で世界挑戦を予定していた辰吉陣営だったが、トーレス戦での苦戦を目の当たりにし、もう1試合ノンタイトル戦をはさむこととなる。 1991年5月19日、1階級下(ジュニアバンタム級=現・スーパーフライ級)の世界ランカーレイ・パショネス(フィリピン)と対戦。アウトボックスで相手を翻弄し、10回判定勝ち。辰吉のフットワークとジャブを駆使して相手を寄せ付けずにアウトボクシングした試合を評価する声が多かったが、当の本人はKOできなかった悔しさからリング上で涙をこぼす。 1991年9月19日、世界初挑戦。WBC世界バンタム級王者グレグ・リチャードソン(米国)に挑む。アマで275戦、プロで33戦のキャリアを誇る王者相手に終始優位に試合を進め、10回終了TKO勝ち。国内最短新記録となる8戦目で世界王座奪取に成功した。平成デビューのボクサーとして初の世界タイトル獲得でもある。しかし、同年12月、左眼の異常を訴え、大阪市内の病院で検査。結果、「網膜裂孔」の診断を受け、そのまま入院・手術。そのため、翌1992年2月6日に予定されていた初防衛戦(対李勇勲=韓国)は中止となり、長期間の休養を強いられることとなる。 1992年9月17日、王座奪取から丸1年ぶりの初防衛戦。休養中にWBC世界バンタム級暫定王座に就いたビクトル・ラバナレス(メキシコ)と統一戦を戦うが、9回TKOに敗れ王座陥落。プロ初黒星を喫した。 その後1戦をはさみ、1993年7月22日、世界再挑戦。当初、3月にラバナレスを降してWBC世界バンタム級王座を獲得した辺丁一(韓国)に挑むことになっていたが、辺が5月の初防衛戦で左手を骨折。そのため、同級暫定王座決定戦としてラバナレスと再戦。フルラウンドにわたる死闘の末、僅差ながら判定勝ち。10か月前の雪辱を果たすと同時に、世界王座返り咲きを果たした。その後、11月25日に正規王者・辺との統一戦が組まれたが、それに向けてトレーニングを重ねていた9月、再び左眼の異常を訴える。検査の結果、今度は網膜剥離が判明。日本ボクシングコミッション(JBC)ルールにより試合ができない身となり、事実上引退の危機に(暫定王座も返上)。 手術は無事に成功。退院後、現役続行の意思を表明し、その道を模索することとなる。その結果、帝拳プロモーション会長・本田明彦等の尽力も有り、1994年7月2日、JBC管轄外のハワイで復帰戦を強行。4月にWBC世界バンタム級王座に挑戦したホセフィノ・スアレス(メキシコ)を3回KOに降す。この勝利でWBCから返上していた暫定王座を再び与えられた。JBCも特例で辰吉の現役続行を許可。 現役続行が許可されたことで、同年12月4日、名古屋市総合体育館レインボーホール(現・日本ガイシホール)でWBC世界バンタム級正規王者薬師寺保栄との統一戦が実現(薬師寺は前年12月、辰吉の代役という形で辺に挑戦し、12回判定勝ち。王座獲得に成功し、これまで2度の防衛に成功している)。この試合は彼のキャリアの中でも最大の注目を集め、圧倒的優位を予想されたが、フルラウンドにわたる死闘の末、12回判定負けを喫し暫定王座から陥落。現役続行の条件として「統一戦に敗れた場合は即座に引退」が掲げられていたため、再度引退の危機に立たされる。 しかし、ここでも引退を拒否。1995年、米国・ラスベガスでノンタイトル戦2試合を強行。遂にJBCも折れ、辰吉は世界戦に限り国内で試合を行えることとなった(その後、「世界戦に準ずる試合」も追加)。 1996年3月3日、2階級制覇を目指し、WBC世界ジュニアフェザー級(現・スーパーバンタム級)王者ダニエル・サラゴサ(メキシコ)に挑戦。しかし、初回からほぼ一方的に打ち込まれ、11回負傷TKO負け。翌1997年4月14日、再度サラゴサに挑むがここでも12回判定で完敗。「もはや世界王座返り咲きは無理」という声も聞かれるようになった。 同年11月22日、通算5度目の世界挑戦。元のバンタム級に戻し、WBC世界同王者のシリモンコン・ナコントンパークビュー(タイ)に挑む。5回に王者からダウンを奪ったものの、6回以降は王者の「捨て身」とも言える反撃であわや逆転KO負けというところまで追い詰められる。しかし、迎えた7回、左ボディブローで2度目のダウンを奪う。辛くも立ち上がった王者を連打で追撃し、レフェリーストップ。この瞬間、約3年ぶりの世界王座返り咲きを果たした。試合後のインタビューでは「ファンのために試合をしているわけではないのに、これだけ応援してくれてありがとう」と涙ながらに答えると、ファンから総立ちで歓声・祝福を受けた。 1998年3月8日にはホセ・ラファエル・ソーサ(アルゼンチン)、8月23日には同級1位の指名挑戦者ポーリー・アヤラ(米国)の挑戦を退け、2度目の防衛に成功。 同年12月29日、元WBA世界バンタム級王者でもあるウィラポン・ナコンルアンプロモーション(タイ)を相手に3度目の防衛戦。序盤こそ互角の展開だったが、回が進むにつれ次第に挑戦者がペースアップ。そして、迎えた6回、挑戦者の左をまともに浴び、プロ2戦目以来のダウン。辛くも立ち上がったものの、挑戦者の激しい追撃に襲われる。そして、最後は挑戦者の右ストレートを左のこめかみに受け、仰向けに崩れ落ちた。 1999年8月29日、王者・挑戦者の立場を入れ替えてのウィラポンとの再戦。開始当初から一方的に打ち込まれ、最後は7回、レフェリーストップ(同時にセコンドからも「棄権」を示すタオルが投げ入れられた)によるTKO負けで雪辱ならず。試合後、「普通のお父っつあんに戻ります」と現役引退を表明した。 しかし、日増しに現役続行への思いが強まり、後に引退表明を撤回。復帰へ向けて始動するも、周囲の反対もあり、再起まで3年以上もの期間を要する。 2002年12月15日、実に3年4か月ぶりの復帰戦。元WBAフライ級王者のセーン・ソー・プルンチット(タイ)を相手に復帰戦を行い、7回TKO勝ちを収めた。 PR |
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