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首相在任時 [編集]
1972年(昭和47年) 9月 - 日米首脳会談後に中華人民共和国を訪問。首都北京で周恩来首相や毛沢東国家主席と会談。9月29日、両国の共同声明により日中国交正常化が実現し、日華平和条約の終了を確認。同日、中華民国が対日国交断絶を発表[3]。 12月 - 第33回総選挙。自由民主党過半数確保も議席減、日本共産党が躍進[4]。12月22日、第2次田中内閣発足で挙党一致体制へ。 1973年(昭和48年) - 地価や物価の急上昇が社会問題化。 5月 - 小選挙区導入(小選挙区比例代表並立制)を提案。野党と世論の猛反発を浴びて撤回に追い込まれた(カクマンダーと称された)。 8月 - 金大中事件発生。当時の朴正煕政権を支持するとの立場から、韓国側の一方的な政治決着を受け入れた[5]。 9月 - 西ヨーロッパ訪問。 10月 - ソビエト連邦訪問[6]。日ソ国交回復時の鳩山一郎以来であり、ブレジネフ共産党書記長との会談において、「両国間にある未解決の問題の中に北方四島の問題が含まれる」という事を確認する日ソ共同声明を発表したが、領土問題についてはそれ以上の成果はなかった。一方、経済協力についてはシベリア開発などでの進展が見られた。 10月16日 - 第四次中東戦争から第一次オイルショックが発生。中東政策をイスラエル支持からアラブ諸国支持に転換すると共に中東地域以外からのエネルギーの直接確保に努めた[7]。なお、田中の支持者の大陸派の間ではこれがアメリカの石油資本の不興を買い、後のロッキード事件による事実上の失脚につながったとする陰謀説を唱える者もいる。 11月 - 内閣改造。福田赳夫が大蔵大臣就任。需要抑制・省エネルギー政策へ転換し、電源開発促進税法等電源3法を成立させ柏崎刈羽原子力発電所への補助金へ当てる。 1974年(昭和49年) 1月 - 東南アジア訪問。インドネシアの首都ジャカルタで反日デモに遭遇する[8]。 7月 - 第10回参議院選挙。ヘリコプターをチャーターし、栃木県を除く46都道府県に訪れて演説等の選挙活動を行う。大敗をして、伯仲国会になる。三木武夫や福田赳夫が閣外へ去る[9]。 9月 - メキシコ訪問。日本メキシコ学院の設立のための援助資金を持ち、 エチェベリア大統領(当時)との会談の結果、「両国民の相互理解のために画期的な重要性を有するものであって、早期建設を支援する」旨の共同声明を発表。 10月 - 月刊誌『文藝春秋』で「田中角栄研究」「淋しき越山会の女王」が掲載。立花隆らが金脈問題を追及する。 11月 - 日本外国特派員協会における外国人記者との会見や、国会での追及を受け、第2次内閣改造後に総辞職を表明。 12月9日 - 内閣総辞職。椎名裁定により三木内閣発足[10]。首相在職通算日数は886日。 首相退陣後 [編集] 全日本空輸が購入したロッキード社のL-1011トライスター 1976年(昭和51年) - ロッキード事件発生。アメリカの上院外交委員会で、ロッキード社による航空機売り込みの国際的リベート疑惑が浮上。7月27日に、同社による全日本空輸に対する売りこみにおける5億円の受託収賄罪と外国為替・外国貿易管理法違反の容疑により、秘書の榎本敏夫などと共に逮捕される。首相経験者の政治家が逮捕されるのは昭和電工事件の芦田均以来。逮捕時に自民党を離党し、以後無所属に。8月に保釈。 12月 - 第34回総選挙。トップ当選するが、自民党は大敗し、三木内閣は総辞職、福田赳夫内閣発足。 1978年(昭和53年)12月 - 第1次大平内閣発足。田中が強く支持。 1979年(昭和54年)10月 - 第35回総選挙。トップ当選するが、自民党は大敗し、その後の「40日抗争」で田中は大平正芳を支持。党分裂の危機へ。 1980年(昭和55年)6月 - 第36回総選挙。参議院とのダブル選挙。トップ当選し、自民党も圧勝。その後の鈴木善幸内閣発足を支持。この時、同じ新潟3区から、元越山会青年部長の桜井新が自民党公認で初当選。 1982年(昭和57年)11月 - 上越新幹線暫定開業(大宮 - 新潟)。第1次中曽根内閣発足。田中の全面的な支持を受け、「田中曽根内閣」と揶揄される。 1983年(昭和58年) 10月 - ロッキード事件の一審判決。東京地方裁判所から懲役4年、追徴金5億円の実刑判決を受け、即日控訴(「不退転の決意」)。 12月 - 第37回総選挙。11月28日に衆議院解散(田中判決解散)。22万票の圧倒的支持を集めて当選。田中批判を唱えて新潟3区から立候補した前参議院議員の野坂昭如は落選。直紀も福島3区から初当選。ただし、自民党は大敗し、中曽根康弘総裁が「いわゆる田中氏の政治的影響を一切排除する」声明を発表。 1984年(昭和59年)10月 - 自民党総裁選。田中派(木曜クラブ)会長の二階堂進副総裁を擁立する構想が起こり、田中は中曽根再選を支持。12月、田中派内の中堅・若手により、竹下登を中心とした「創政会」の設立準備が進められる。 1985年(昭和60年) 2月7日 - 創政会が発足。 2月27日 - 脳梗塞で倒れ入院。言語障害や行動障害が残り、政治活動は不可能に。 6月 - 田中事務所が閉鎖。 9月 - ロッキード事件控訴審開始、田中は欠席。 10月 - 関越自動車道全通。 1986年(昭和61年)7月 - 第38回総選挙。トップ当選。田中は選挙運動が全く行えず、越山会などの支持者のみが活動。自民党は圧勝。 1987年(昭和62年) 7月4日 - 竹下が経世会を旗揚げ。田中派の大半が参加。二階堂グループは木曜クラブに留まり、中間派も含めて田中派は分裂。 7月29日 - ロッキード事件の控訴審判決。東京高等裁判所は一審判決を支持し、田中の控訴を棄却。田中側は即日上告。 10月 - 竹下が田中邸を訪問。眞紀子に門前払いされる。後に皇民党事件として表面化。 11月 - 竹下内閣が発足。 1989年(平成元年)10月 - 直紀が次期総選挙への田中角栄の不出馬を発表。 1990年(平成2年) 1月24日 - 衆議院解散により政界を引退。衆議院議員勤続43年、当選16回。各地の越山会も解散。 2月 - 第39回総選挙。元越山会員で前小千谷市長の星野行男が自民党公認で当選。 1992年(平成4年) 8月 - 中国訪問。中国政府の招待で20年ぶりに訪中し、眞紀子などが同行。 12月 - 経世会が分裂。 1993年(平成5年) 7月 - 第40回総選挙。眞紀子が自らの選挙区だった新潟3区から無所属で出馬し、初当選。角栄自らも病をおして新潟入りし、眞紀子の応援をする。後に自民党へ入党。選挙で過半数を下回った自民党は下野し、元田中派所属の細川護熙による非自民8党連立内閣が発足。 12月16日 - 75歳で死去。戒名は政覚院殿越山徳栄大居士。墓所は新潟県柏崎市(旧西山町)田中邸内。ロッキード事件は上告審の審理途中で公訴棄却となる。内閣総理大臣を1年以上在任した人物には大勲位菊花大綬章が叙勲される事が慣例となっているが、田中は有罪判決を受けた刑事被告人のまま死去したため勲章は与えられなかった。 没後 [編集] 1995年(平成7年)2月 - 榎本敏夫に対するロッキード事件上告審の判決理由で、最高裁判所が田中の5億円収受を認定する(首相の犯罪)。 1998年(平成10年)4月 - 田中角栄記念館が新潟県柏崎市(旧西山町)に開館。 2000年(平成12年) - 朝日新聞の「この1000年の『日本の政治リーダー』読者人気投票」で、坂本龍馬、徳川家康、織田信長に次いで第4位の得票を得る。 2007年(平成19年)7月16日 - 新潟県中越沖地震で墓石が倒壊する。 2009年(平成21年)3月 - 朝日新聞の『「昭和」といえば何を思い浮かべますか… 全国世論調査』において、人物の分野で回答の21%を占め第2位となった[11]。 人間関係 [編集] 田中内閣発足にあたっては三木武夫の支援を受け、この支持を恩義に感じた田中は三木を国務大臣として内閣に迎え入れ、後に副総理にも指名している。しかし、三木と田中は日中国交回復という点では一致していたものの、金の力に物を言わせる田中と政治浄化を信条とする三木とでは政治姿勢が全く異なり次第に対立していくようになった。そして1974年の参議院選挙の徳島県選挙区での公認候補選定を巡り、三木が「現職優先の原則」通り三木派で現職の久次米健太郎の公認を申し入れたのに対し、田中が元警察庁長官で新人の後藤田正晴に公認を与えたことから二人の関係は抜き差しならないものとなった(三角代理戦争)。選挙の結果久次米が当選し三木の面目は保たれたものの三木は閣外へ去った。その後反主流派の福田赳夫が三木に接近し福田もまた閣外へ去り田中倒閣への動きを先鋭化していくこととなった。ただ田中は、小派閥を率いて永田町を器用に遊泳する「バルカン政治家」の三木を「政治のプロは俺と三木だけだ」と評価していたとされる。 大平正芳とは長く盟友関係にあり、「大角連合」と呼ばれた[12]、田中の首相就任の際には大平の協力が、大平の首相就任の際には田中の支援があった[13]。田中政権の成立にあたっては「内政は田中、外交は大平」との方針でいくことが2人の間で交わされており、大平は自派(宏池会)からの三役就任の声を押し切って外相を引き受けた[14]。日中国交正常化交渉の実務を取り仕切り[3]、日中航空協定では党内の批判の矢面に立ち交渉を取りまとめた[15]。両者の関係は田中と大平の個人的関係にとどまらず、田中派と大平派は兄弟派閥として議員の交流も盛んであった。 党人派で副総裁を務めた川島正次郎と田中は佐藤内閣で近い関係にあり、佐藤長期政権を作ることで川島は田中の総理への道を切り開いた。一方、官僚出身政治家として対極にあった福田赳夫や、「クリーン政治」を訴え自らの逮捕を容認した三木武夫とは激しく対立した。特に福田との「角福戦争」は第2次大平内閣時に首班指名選挙での党分裂状態[16]や不信任案の福田派欠席による可決までエスカレートした[17]。 正妻・はなとの間には1男1女を儲けたが、長男の正法は夭折し、成人したのは長女の眞紀子のみ。はなは病弱のため、田中が首相の時には眞紀子がファーストレディの役目を代行した。 東京・神楽坂の芸者、辻和子との間に2男1女がいる(1女まさは夭折、2男は田中の子として認知されている)。彼女らは政界の表舞台には立たず、政治地盤の継承も行わなかった。二男の京は音楽プロデューサーやバー経営者で、後に母子でそれぞれ田中への回想録を出版した。秘書であった佐藤昭子との間の1女は認知されていない田中の子供とされている。 2,575坪(約8,500m²)の敷地を誇る東京都文京区目白台一丁目の自邸は「目白御殿」と呼ばれ、政財界の要人が常時ここを訪れたことから「目白詣で」いわれた。この当時、政界で「目白」と言えば田中角栄のことを指していた。 中華人民共和国からは「日中国交回復を決断した偉大な政治家」として尊敬され、鄧小平が1978年に来日した際に田中邸を訪問するなど、田中がロッキード事件により訴追された後も多くの中国政府の要人が田中邸を訪問した。 経済界での人脈も広く培っていた。その中で、田中が「刎頸の友」と呼んだ国際興業の小佐野賢治は、田中を資金面でバックアップしたとされ、後に共にロッキード事件で刑事責任を問われた。この事件では小佐野を介して右翼団体の大物活動家である児玉誉士夫との接点が指摘された。この方面の人脈については現在でも不透明な部分が多い。 PR |
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