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【2024/11/28 10:37 】 |
踊り264
派閥 [編集]



小沢一郎(右)と
田中派は自民党内最大の派閥であり、特にロッキード事件以後は角栄の「数は力なり」の信念の下で膨張を続け最盛期では約140人の国会議員が所属していた。その数の多さや華やかさなどからマスコミには「田中軍団」「田中親衛隊」等と評され流行語にまでなった。その中には、二階堂進、金丸信、竹下登などの当時の党幹部が含まれ、中堅には後に竹下派七奉行と呼ばれた羽田孜・橋本龍太郎・小渕恵三・小沢一郎・梶山静六・奥田敬和・渡部恒三、他に綿貫民輔、野中広務(京都府議時代から目をかけていた)などであった。なお、小沢は早世した正法と同じ1942年生まれで、田中は特に小沢をかわいがったとされる。その後、七奉行の中で羽田・小沢・奥田・渡部の4人は自民党から離党し、民主党への流れを作った。
派閥の肥大化、権力の掌握にあたって非常に機能的に組織されていたのが秘書集団であった。それが最も機能的に働いたのが第1次大平正芳内閣発足前夜の自民党総裁予備選であった。当初、現役総理の福田は「予備選に負けた側は本選を下りるべき」と明言するほど党員票の差があると見られていた。大平を推す田中派は後藤田正晴の指示の下、秘書集団が東京を中心とする党員を戸別訪問する「ローラー作戦」を展開することによって結果は逆転、一転福田を本選辞退に追い込んだ。有名なところでは金庫番と言われた佐藤昭子、スポークスマン的な役割を担った早坂茂三、選挙戦を新潟から支えた国家老本間幸一、目白にあって城代家老と言われた山田泰司、総理大臣秘書を努めた榎本敏夫などがいる。しかし、角栄が倒れた後は眞紀子によって遠ざけられた者も少なくない。
ロッキード事件による逮捕で自民党を離党した後も党内最大派閥の実質的な支配者として君臨し、マスコミは角栄を「闇将軍」と呼んだ。角栄自身が復権に固執(裁判で無罪判決が出た後に首相に返り咲く事)したため、自派からの自民党総裁選立候補を許さず、内閣総理大臣の権威を失墜させ、日本の政治権力構造を不透明なものにしたが、配下(子分)からの不満が起こり、最終的には竹下登の離脱で田中派が崩壊した。真紀子曰く派閥分裂後は見舞客も年を追うごとに激減し没後墓参りに訪れた元田中派若手議員も稀であったという。
典型的な党人派政治家であったが、多くの官僚出身者も迎え入れた。特に自分の内閣で内閣官房副長官(事務担当)を務めた元警察庁長官の後藤田正晴は重用され、田中が倒れた後も自民党政権の中枢に座り続けた。
芸能界からも積極的にスカウトを行い、参議院選挙では全国区で山口淑子(大鷹淑子、李香蘭)、山東昭子、宮田輝などを当選させた。また、田中からの勧誘を断った芸能人に対しては他党からの出馬をしないように言い含めたともされる。
選挙区 [編集]



浦佐駅の駅前広場に建つ田中の銅像
自らの選挙区である新潟県への社会基盤整備には特に熱心だった。「雪国と都会の格差の解消」「国土の均衡ある発展」を唱え、関越自動車道や上越新幹線のような大規模事業から、長岡市や小千谷市などの都市部での融雪装置設置や、山間部の各集落が冬でも孤立しないためのトンネル整備(小千谷市の塩谷トンネル等が知られる。当時戸数60戸の集落に10億円の建設費用を掛けて建設された為、反発も少なからずあった)等の生活密着型事業や柏崎刈羽原子力発電所誘致など、多様な公共事業を誘致した。さらに自身のためのテレビ番組も持ち、選挙民の陳情を番組で直接吸い上げると共に、業績を強烈にアピールした。
選挙区の旧新潟3区の全市町村で結成された後援会組織「越山会」は、鉄の団結と評された。越山会は、建設業者による公共事業受注と選挙の際の田中への投票という交換取引の場ともなり、地域住民の生活向上に大きく貢献する有効な組織となった反面、自民党政治の典型である利益誘導や金権体質への強い批判を受け、公共事業へ過度に依存したいびつな産業構造も残した。これらの公共事業の実施に際しては、長岡市の信濃川河川敷買収・利用問題などで自らや親族が役員を務める「ファミリー企業」への利益供与が疑われ、金脈問題への追及を受けることになった。しかし、ロッキード事件後も、越山会は田中に圧倒的な得票での当選を続けさせて、中央政界での政治的影響力を与え続けた。
自らの選挙区で後継者を定めることはなく、自らがトップに君臨し続けたため、桜井新の離反などが起こった。1990年の引退時には越山会を解散し、自主投票となったが、1993年の総選挙では旧越山会会員の多くが眞紀子を支持した。眞紀子の当選後にお国入りした際「目白の骨董品が参りました」と紹介された。
浦佐駅東口には田中の巨大な銅像が建立されている(1985年除幕)。二階堂進が揮毫した。2005年「冬に雪をかぶって可哀相だ」との眞紀子からの要望によって銅像の上には新たに屋根が設けられた。一方、自ら校長も務めた母校の中央工学校が校内に銅像を立てようとした際には、「学校に政治を持ち込むのは良くない。自分は母校のために何もしていない」と言いこれを断っている。
外交 [編集]



ホワイトハウスでリチャード・ニクソンと会談
田中内閣の外交業績としてまず挙げられるのは、日中国交正常化である。 背景として、1972年1月にアメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンが中華人民共和国を訪問したこと、および三木武夫が総裁選における田中支持の条件として日中国交正常化を条件としたことがある。(詳しくは日中国交正常化を参照) これによって田中は中華人民共和国から「井戸を掘った恩人」と評価された。日中外交の先駆者という意味であり、田中が金脈問題で失脚した後も鄧小平が田中の私邸を訪問し敬意を表している。

角栄はブラジル側にセラード農業開発協力事業という共同の農業開発プロジェクトを提案し、この事業推進の嚆矢となっている。この時期、米国の穀物相場暴騰による大豆の禁輸措置、第一次石油ショックなどを切っ掛けに資源の安定確保が日本の重大な外交課題となっていた事を背景に、ブラジルを訪問し共同プロジェクトを提案した。2001年までの終了するまでの21年間、3期に分けて実施され、国際協力事業団(現JICA)を通じて多数の農業専門家の派遣や農家の入植などにより、21年間で約600億円の資金が投じられプロジェクトが遂行された。 熱帯の約面積2億ヘクタール(日本の約5倍ほどの面積)の潅木林地帯で、酸性の赤土に覆た耕作には不適とされてきた土地の土壌改良による穀物栽培の開拓が行われた。セラード農業開発の成果もあり、今ではブラジルはトウモロコシや大豆の生産・輸出大国となっている。

北方領土交渉においてレオニード・ブレジネフに「未解決か?」と訊き、ブレジネフは最初はっきりと断言せずあいまいな回答をしたため、田中は顔色を変え「イエスかノーなのか、最高責任者としてこの場で今すぐはっきりと回答してもらいたい」と迫り、驚いたブレジネフから「ダー(そうだ)」という回答を引き出した。
朝鮮民主主義人民共和国に対しては、1973年に金日成の提案した祖国統一・五大綱領を支持した。当時の大平正芳外務大臣は、同年7月4日の衆議院法務委員会で、このことに関する日本社会党赤松勇委員の質問に対し、「案ずるに、朝鮮民族といたしまして祖国の統一ということが最高の念願である、それを具体的に提唱されたことに対しまして評価されたことと私は思います。」と答弁している。[18]。
日本国内閣総理大臣として初めてアメリカ大統領(ジェラルド・フォード)の訪日を実現させている。
野党との関係 [編集]

議員活動が長く、議員立法などで野党との協力を行う場面も多かった。
民社党との間では、1965年の「日韓国会」(日韓基本条約承認)から春日一幸とのパイプがあった。
公明党とは「言論出版妨害事件」をめぐり公明党側に配慮した行動をとったため、田中と公明党との友好関係が生まれた。田中は社会党・共産党の革新勢力を相対的に弱めるために中道の公明党には融和的態度をとったとされ、田中派所属議員の中にも公明党議員と親密な関係を持つ者が少なくなかった。
新潟では労働運動の影響で日本社会党の力が比較的強く、革新系首長・議員も多くいたが、田中はこれらとも別け隔てなく接し協力も惜しまなかった。そのため、中央政界で社会党が田中批判を行っても、新潟ではそのトーンが落ちるという指摘もあった。
首相陥落とマスコミ [編集]

田中角栄が首相の座から陥落した最大の原因が、角栄自身の金満・金権政治である事に変わりは無いが、陥落へと直接主導したのは政府でも、三木武夫でも無く、当時若手だった立花隆を始めとする週刊誌記者・マスコミである。
当時は角栄の記事を書けば書くほど、売り上げが伸びる為、新聞・テレビ・週刊誌は、こぞって田中角栄の記事を書き続け報道し続けた。
これにより、首相在任中より角栄バッシングは頻発しており、元来、角栄は自分の評判を非常に気にする性格であった為、新聞・テレビは言うに及ばず、週刊誌等にも自分の記事が掲載されれば、必ず目を通し、それらの記事を見る度に心を揉み、記者を呼びつけ批判記事を書くなと要求する事は日常茶飯事で、挙句、記者恫喝騒動まで起こした。
また、連日の角栄批判報道により世論にも角栄批判が巻き起こり、当時政財界に対し絶対的権力を有していた田中角栄であったが、あれよあれよという間に権力の座から転げ落ちた。
首相陥落後は精神的ショック等から占い師に傾倒した時期があり、角栄のトレードマークとも言えた錦鯉が居る目白御殿の大きな池を、占い師の指示により埋め立てる等、迷走していた時期がある。
闇将軍 [編集]

ロッキード事件発覚による収賄罪の逮捕、起訴されて自民党を離党したが、収賄罪の刑事訴訟が長期裁判化して実刑確定にならないまま係争中であることを口実に、自身は無所属候補として地元選挙区で1位当選し続け、自民党籍を持たない無所属衆議院議員、いわゆる「自民党周辺居住者」ながら派閥領袖として田中派を通じて裏舞台から政界に影響力を維持し続け、マスコミは「闇将軍」と称した。特に大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘の首相就任には田中の支持が不可欠でありキングメーカーのポジションであった。閣僚や党役員や国会の委員長人事にも関与し、自身の刑事訴訟における指揮権問題につながる法務大臣や党資金や選挙における公認権限を持つ自民党幹事長などの重要ポストを田中派及び田中に近い議員で多く占めた。また自身の無罪が確定した場合は自民党への復党による表舞台復帰と総理総裁への返り咲きすら目論んでいた。
1985年に病に倒れ、次第に影響力を失っていった。
角栄語録 [編集]

「三国峠をダイナマイトでふっ飛ばせば新潟に雪は降らない。そしてその土を日本海に運んで佐渡と陸繋ぎにしよう」(初出馬時の演説)
「政治は数であり、数は力、力は金だ」(=数の論理)
「これからは東京から新潟へ出稼ぎに行く時代が来る」
「俺の目標は、年寄りも孫も一緒に、楽しく暮らせる世の中をつくることなんだ」
「中国国民全員が手ぬぐいを買えば8億本売れる」(日中国交正常化の際の発言)
「現憲法下においても核武装は可能である」(国会答弁で)
「よっしゃよっしゃよっしゃ」ロッキード事件の賄賂を受領した際に述べたとされる発言
その他 [編集]


この節に雑多な内容が羅列されているので、本文として組み入れるか整理・除去する必要があります。このタグは2009年2月に貼り付けられました。
初出馬の際氏名のひらがな表記は「たなか かくえ」であった。この時の政見発表演説会の演題は「若き血の叫び」。
演説や答弁を始める時「まーこのー」と前置きしてから話を始めることがあり、現在でも田中の演説のものまねをする際、この前置きの言葉が使われることが多い。
バセドウ病の持病があり、暑がりであったことから、東京拘置所に拘置されているときに、アイスクリームを自費で買えるように法務大臣に圧力を掛けて、購入できるようにしたらしい。現在でも東京拘置所ではアイスクリームが自費購入できるとの事。
学生時代、英和辞典を隅から丸暗記して、覚えたページは破り捨てたという。
馬主としても有名で、1965年の優駿牝馬優勝馬のベロナ(名義は夫人であったが、実質上は田中自身の持ち馬)や、長女の眞紀子から名を取ったマキノホープ、マキノカツラ、マキノサクラ、マキノスガタなどの馬を所有していた。
中曽根康弘を「遠目の富士山」「出たがり屋の婆芸者」「なるものになったらお前らなんか見向きもしない。天井向いて歩く」、橋本龍太郎を「備前長船の風切り小僧」「あのタイプは切れるが人に好かれない」、宮澤喜一を「英語屋」「あれは一流の秘書官で政治家じゃない」「金襴緞子のお姫様」、小渕恵三を「光平さんの倅は目立たない男だ。ビルの谷間のラーメン屋。なかなかやるねぇ」、池田大作を「ありゃ法華経を唱えるヒトラーだ」などと評していた。[要出典]
自派閥のメンバーには絶対的な服従を強いる強権的な姿勢が目立った反面、敵対する勢力に対しては最後まで追い詰めることは避け、しばしば苦境に立った政敵に救いの手を差し伸べた。
小室直樹の著作を愛読し、高く評価していた。小室はロッキード事件の際「田中無罪論」を展開したが、それ以前からの読者である。
味付けの濃い食べ物を好んだ。日中国交樹立の際に、中国側にお気に入りの味噌汁とあんパンを出された事が中国側への破格の譲歩につながったとも言われる。総理在任中は常にミネラルウォーターを持ち歩いていた。
日本各地の選挙情勢をくまなく把握し、その見通しは滅多に狂わなかったという。
家紋は剣片喰(かたばみ)である。
苦学生である角栄は教育問題、とりわけ公教育の重要性を認識しており、首相在任時には公立学校の教員給与を引き上げたり、教員の地位や質の向上に努めた(人材確保法案)。これには、特に自民党文教族にとっては、労働争議の活発な日教組を懐柔し、骨抜きにするという意味合いもあった。日教組側は、(1)給与は労使交渉で決めるべきで、上から一方的に決めるのはおかしい (2)3段階の給与を5段階に細分化するのは教職員の分裂を企図するもの ――という理由で反発した[19]。しかし、待遇改善の魅力は大きく、最終的に日教組側は妥協した。
1957年12月31日、第8回NHK紅白歌合戦に審査委員として出演した(当時、郵政大臣)。
総理大臣を務めたことがあるにも関わらず、勲章を受章していない(ロッキード事件の一・二審で実刑判決(上訴中に死亡のため公訴棄却)が出ていた影響かと思われる)。なお、リクルート事件で秘書が略式起訴となった宮沢喜一は勲章受章対象となった(宮沢本人の生前の意向により勲章辞退)。
倒れてからは、体力のある介護人が必要と、元十両力士の凱皇の介護を受けて過ごした。
男なら「かくえい」、女なら「すみえ」と読ませるつもりで、生まれる前から「角栄」の字を当てることが決まっていた。
有権者の面倒見がいい事で知られコネで就職させた有権者の子弟は数百人に登るという。
1972年7月に首相就任してから10月に国会で所信表明演説をするまで113日経過している。これは日本国憲法下で初就任した首相の中では最も遅い記録である。
エピソード [編集]

田中派の一回生議員が美人局にあった。解決のために多額の金が必要になり、様々なつてに頼ったがどうしても100万円(現在の価値では三倍以上)とちょっと足りない。選挙を終えたばかりで借金のあった議員は万策が尽き田中に借金の申し込みをした。田中は快諾し、議員は田中の事務所に急いだ。事務所につくと田中は急用で留守にしており、伝言を預かっていた秘書より大きな書類袋を受け取った。中を確認するとなんと300万入っていた。メモが同封されており以下の様に書いてあった。「トラブルは必ず解決しろ。以下のように行動しなさい。1. 100万円使って、トラブルを解決すること。2. 100万円を使って世話になった人に飯を奢るないし、必ず御礼をすること。3. 残りの100万円は万一のトラブルの為に取って置くように。4. これらの金は全て返却は無用である。」議員は泣いた。
派閥が違う上に田中とほとんど面識のない議員が資金繰りに窮し、借金を300万申し込んだ。面識のない自分に申し込むほどの窮状を察した田中はその日のうちに金を用意し、「困ったときはお互い様だ。これは返さなくていい。俺が困ったとき頼む」といって紙袋を渡した。紙袋を確認すると500万入っていた。実は議員は500万を用意しないと絶体絶命だったのだ。議員は夜ベッドで、枕に顔をうずめ泣き、田中に忠誠を誓った。このように金を最大限生かすため相手の予想(期待)より多くのお金を与えることも多々あった。
ロッキード事件で東京地裁で169回もの公判等が行われたが田中は事前に届出をすませておけば、必ず出廷する必要はないにもかかわらず、一日も休まず通った。これは秘書の早坂茂三も同じである。田中は絶対無罪だと確信していたという。控訴審有罪に対して上告中に死去したため公訴棄却となったが、控訴審で有罪になった事件が最高裁で無罪になることはよほどのことが無い限りはあり得ない(実際、秘書の上告審で有罪確定となり、5億円収受が認定されている)。
軽井沢の別荘に番記者を呼び出し、俺の不都合なことを書くなという旨の趣旨を言って恫喝したことがある。この暴言を書いたのは文藝春秋と週刊現代だけで、他の番記者は記事にしなかった。このことを立花は猛批判している。
総理だった佐藤栄作に仕えていた田中は三度破産したといわれている。関係はほとんど主人と奴隷のような関係で徹底的に尽くし恩を売った。そしてそこまで佐藤政権を支えてこそ、次期総理の権利をつかんだ。
福田派に属していた反田中派の議員が入院した。真っ先にお見舞いに訪れたのは田中で挨拶もそこそこに議員の足元に紙袋を差込帰った。中を見ると驚くことに300万入っていた。次にボスの福田が見舞いに来た。一通りお見舞いの言葉を述べるとぎこちない様子で白い封筒を差し出した。「こんな時、不自由するだろう。ほんの心づもりだ~~・・・」といって差し出した。しかしぎこちなかったため礼儀として遠慮した。福田は封筒を懐に戻した。次に総理の中曽根が来た。見舞いの口上の後、機械的に茶封筒を差し出した。福田の時損をしているので遠慮せず受け取ると、中曽根は封筒を離さず政治家の心得のようなものを説諭した。いつまでたっても離さないので気が引けて議員から手を離した。この後この議員は福田派として動いていたがピンチのときは党派を超えて田中を支えた。
福田派の福家俊一が入院した時いち早く見舞いに訪れ、分厚い袋に五百万もの金を入れて足元に忍ばせた。その後四回ほど田中は見舞いに訪れその度に五百万ほど忍ばせていた。福家は批判をしなくなった。
田中がソ連に訪れる時秘書から盗聴されるから気をつけるようにと忠告を受けた。しかし、田中は発想を転換してこの盗聴を利用し、「石鹸が悪い、トイレットペーパーが悪いと大声でどなると、翌日には上等のものに変わっていた。盗聴されるのもいいものだ!」と帰国後笑って秘書に伝え、秘書を絶句させた。
お金を渡すときは細心の注意を払い相手によってプライドをくすぐり、あるいはプライドを逆なでしない枕詞を使用し、賄賂と取られないように細心の注意を払って渡していた。政治家に対しては「お金はいくらあっても邪魔になりませんから。」「資金はあると思いますが、まげて収めてください。」「党のため、国のため、あなたには当選してもらわなくてはなりません」等。官僚に対しては「このくらいの金で君は動く男じゃないだろう? 俺の気持ちだ!」「俺だって見返りを要求するほど愚かな男じゃない。」など料亭で働く人々に対しては女将に「これを皆さんにお願いいたします」など徹底的に腐心してプライドを傷つけず渡していた。
郵政大臣に就任した直後視察すると、昼休みとはいえ麻雀にふけったり、机の上に足を投げ出したりとだらけきっていた。怒り心頭の田中は調査すると省内が二大派閥に割れており、その二人のボスが元凶と知り、次の人事異動で勇退(更迭)させた。これで省内の雰囲気もよくなったという。
田中は日本の官僚を極めて高い評価をしていた。いわく歩く肥大した図書館。彼らに取り入るため以下のことを行った。大蔵大臣時代予算編成で休日返上で不眠不休で頑張っている彼らに、「大臣室に来てくれ」とひとりずつ呼び「いつもご苦労様。感謝している。これでタオルでも買ってくれ」と封筒をわたすと中に現金が入っている。驚く官僚に田中は「こんなことで影響をうけたりしないだろう?」「お前たちは日本最高のエリートだ。この程度で俺に配慮するはずないだろう?」「俺も見返りなど要求はしない。俺の気持ちだ受け取ってくれ」といった話術と迫力をもって黙らせた。ボーナスの時期になるとポケットマネーで課長以上の人間に総額2千万以上もの金を使いボーナスを渡していた。
相手を説得させる時は極力一対一で会い、一対一での説得ならば誰にも負けないと豪語した。盟友の大平正芳は「田中とは一対一で会わずに複数で会うこと。一対一で会えば、必ず言うことを聞かされてしまう」と述べていた。福田も田中の意見に流されるのを嫌って一対一で会うことは極力避けていた。
大臣には大臣機密費という自分の裁量で自在に使える機密費があるが、田中は郵政、大蔵、通産大臣時代一度も手を付けず「部下の面倒も見なければならんだろう、自由に使ってくれ」と全て事務次官に渡していた。官僚が驚いたのはいうまでもない。特に課長クラスには目をかけ、飲み食いできる金額を人知れず渡していた。
田中派ではない村岡兼造議員が1976年に落選した。即座に田中から連絡が入り「次の選挙まで俺の部屋を使え」という。考えた末断ると「砂防会館の事務所を使え、すでに話は通してある」という。そこまでされた村岡は提案を受け入れた。間もなくして田中派の行政管理庁長官を務めた議員から秘書官の誘いがきた。動けないのならば肩書きだけでもいいということで、さらに給料が30万でた。すべて田中が手を回していたのだ。落選しても事務所を二つ持つことが噂になり、見事再選を果たした。彼も田中の虜になった。
田中の秘書の一人が小佐野と佐藤昭子を切るように辞職覚悟で忠告した。田中は前者は了解したが、後者は無理だといった。秘書は辞職した。後に心筋梗塞でその秘書は倒れた。田中はただちに病院に急行。当時総理は辞していたが、病院は大騒ぎ。田中は秘書の担当医を見つけるといきなり土下座の格好で彼を助けてくれと懇願した。病院側は田中の迫力に背筋が凍ったという。手付けに100万円渡し、集中治療室の元秘書を励ました。元秘書は頷き、田中が去った後涙した。
冠婚葬祭、特に葬儀には熱心だった。田中派の重鎮、竹下登の父が死去したとき、飛行機をチャーターし、総勢69人の田中派の議員が人口四千人の村を訪れた。
河本派の渋谷直蔵議員の妻が死去した。田中はすぐさま花を贈り、本葬まで一週間あると知ると、花が枯れてはかわいそうということで途中で新しい花に変えて最後まで新品のようだった。これを聞いた渋谷は驚いた。
中曽根と田中はあまり仲がよくなかったが、ある時中曽根が中国へ行って外交がしたいと言った。これが田中の情報レーダーに引っかかった。すぐさま中国の要人への紹介状を書き中曽根へ送った。中曽根は大喜びした。
社会党の某議員婦人が亡くなったとき、社会党の誰よりも早く田中は式場に現れ関係者を驚かせた。代議士は夫人をとても大切にしており、恩を感じた議員は田中がピンチのときは党の枠をこえて忠誠を誓った。
盟友の石破二朗が死去した際に、長男の石破茂が石破家を代表する形で目白の田中邸に訪れた際に、国会議員による友人葬において葬儀委員長を務めて鳥取県民葬より多い弔問客を動員させた。友人葬が終わって目白の田中邸に訪れた石破茂に対し「君がお父さんの遺志を継いで、衆議院に出るんだ! 日本のすべてのことはここで決まるのだ」と口説き、政治家になる気がなかった石破茂を政界入りさせる気にさせた。
田中派の小林春一議員が妻を亡くした。途方にくれていた時、田中から連絡が入り事務所に向かった。田中はお悔やみの言葉をかけ、封筒を渡した。中には100万円はいっていた。小林はその金で立派な仏壇を特注し、田中に忠誠を誓った。
大手会社の社長が妹を亡くしたとき、田中は誰よりも早く花輪を届け、花が枯れたら故人もかわいそうだということで毎日花を取り替えさせて、関係者を絶句させ涙させた。
陳情等で田中はできることはできるといい、できないことはできないとはっきりいった。「善処する」といった蛇の生殺し的な曖昧な言い方を嫌った。この為できるといった案件は100パーセント実行され、それゆえに信頼された。ちなみに「できない」と断ることは勇気がいることとよく言っていた。
陳情は一件約三分でてきぱきこなし、決断が非常に早かった。
ロッキード事件で逮捕起訴されて表舞台に復帰する見通しが立たないにもかかわらず、実母のフメがなくなった時は葬儀参列者は三千人を越えた。花輪は600本以上あり、しかもこれは半分以下であまりにも多すぎて半分は断ったためである。しかも前夜に国鉄のストがあったにもかかわらず東京から六時間かけて車を飛ばし駆けつけた議員や、飛行機で新潟へ行きそこから車を使い駆けつけた議員もいた。
全盛期年賀葉書は七、八千枚きた。これらに全て目を通し、一枚一枚の葉書にも気を配っていた。もちろん名も知れない選挙民が大半である。
新幹線のグリーン車に乗っている時、批判的なある社会党の議員と支援の労組幹部と鉢合わせた。田中は「いやー君にはまいったよ」と賞賛し、直後に支援の幹部に「彼が自民党にいたらとっくに大臣もしくは三役になっている」とおだてた。この話が労組に知れ渡り、「あの先生は本当にできる人なんだ」という噂がたち、その議員は株を大きく上げた。この手の手法をよく使い、敵を取り込むことをしていた。
郵政大臣就任後「三つの歌」というラジオ番組に出演し、浪花節「天保水滸伝」の一節をうたい、「公共放送でヤクザ礼賛の浪花節を歌うな」と猛抗議をうけてあやうく大臣の椅子から落ちそうになったことがある。
幹事長時代、木村俊夫の選挙運動の時、後援会の宴会が催されたが、木村がどうしても出席できなかった。その時木村の秘書が田中に支援を要請。田中は快諾し宴会で天保水滸伝、杉野兵曹長の妻をうたい、大盛り上げをした。結局木村は当選。田中派になった(ただし、表面的には無所属)。
大蔵大臣時代、所得税法改正の審議の際、官僚のミスで誤った税率表を使うという信じがたいミスを犯した。審議中な為に訂正は不可能の上、肝の部分が違っている。作成した役人達は青くなった。大臣の首も飛ぶだろうし、作成した役人、その上司の首が確実に飛ぶ出来事である。これをマスコミや他の党が黙っているはずがない・・・のだが、このことを辞表を忍ばせ田中の元に訪れると、笑いながら「そんなことで辞表は出さなくていい」と改定表を持ち、堂々と「先日提出の表には間違いがございます」と何食わぬ顔で訂正した。野党もマスコミも沈黙したまま。もちろん田中が裏で手を回したのはいうまでもない。こういった責任をかぶるということをためらわずし、アイデアがない時は想像もできないアイデアを出す為(例えば道路関係の法律。建設省は田中には頭が上がらなかった)、田中を慕った官僚は非常に多い。
田中は記憶力が驚異的であることが知られている。名も知れない有権者にあっても即座に名前(はともかく)、その人の家族の年齢、悩み、仕事などがパッとでる。これらに関しては曰く「まあ美人の顔を覚えるようなものだ」。それでもどうしても思い出せない時は「あなた誰だっけ?」と聞いて、相手が苗字で返すと「そうじゃない! 苗字は知っているが、名前を聞いているんだ」と少なくとも苗字は知っていたかのように装っていた。
大石三男次という後援会の大幹部の父がなくなった。田中は葬儀に出たかったが、別の葬儀が重なって苦しかった。田中は大石に電話をして葬儀は伸ばせないかと尋ねた。大石は恐縮しながらも無理であると断った。が田中は当時幹事長で激務であるにもかかわらず葬儀に駆けつけた。とんぼ返りする田中を見て大石は改めて田中を支援しようと誓った。
社会党の委員長の河上丈太郎がなくなった時、わざわざ火葬場まで出向き雨の中二時間たち続け野辺の送りをし、社会党議員を感動させた。また自民党の松野頼三の妻がなくなった時も誰よりも早く駆けつけ感動させ、これ以降松野はあまり批判をしなくなった。
田中は下の者ほど大切にした。秘書に対してもわざわざ毎晩労いの言葉をかけたり、守衛の人間にも毎日労いの言葉をかけたり、自分の運転手にまで立派な医者を当てるなどしていて、感動させていた。
郵政大臣就任後官僚をパーティに招いた。但し条件があり夫婦同伴。夫婦で行くと田中は夫人たちを褒めた。こんなことをしたのは田中が初めてである。役人達は田中を見直した。
田中が初出馬の時進歩党の大麻唯男から三百万(現在の価値で十五億)もの資金調達を頼まれた。田中はなんと用意した。大麻は田中に頭が上がらなくなり、次回の選挙のとき公認した。
田中は交渉をする時、余計なことを言わずに相手を呑んでかかるという手法を使っていた。通産大臣時代ケネディ特使とやりあったとき、「これが決裂したらあなたの責任になる」と恫喝し、ケネディを追い払った。翌年の対米繊維輸出は約十九パーセントの増額であった。ブレジネフの時も領土問題を避けようとすることに対し「入れろ!」と机を叩きながら恫喝。最後には「入れなければ、我々は共同声明を出さずに帰国する」とまでいい口頭で了解させた。
時間を守れない男は仕事ができないという持論だった。さらに悪口を言わないというのも持論だった。
『私の中の田中角栄』 (田中角栄記念館編、1998年、第2版2005年)、80数名の追悼文で知られざるエピソードが記されている。
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【2010/11/02 22:55 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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