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【2024/11/28 03:49 】 |
石井 義信
石井 義信(いしい よしのぶ、1939年3月13日 - )は広島県福山市出身の元日本代表サッカー選手(MF)、サッカー指導者。
元フジタ工業(旧藤和不動産、現湘南ベルマーレ)監督、元日本代表監督。2001年よりFC東京アドバイザー。
目次 [非表示]
1 来歴
1.1 東洋工業時代
1.2 藤和不動産/フジタ時代
1.3 JSL常任運営委員
1.4 日本代表監督
1.5 フジタ総監督~ベルマーレ平塚
1.6 現在
2 脚注
3 所属クラブ
4 指導歴
5 個人成績
6 代表歴
6.1 試合数
7 監督成績
8 著作
9 参考文献
10 関連項目
来歴 [編集]

東洋工業時代 [編集]
福山葦陽高等学校を卒業後の1957年、東洋工業(現マツダ)に入社、東洋工業蹴球部(のちのマツダSC、現サンフレッチェ広島)に入部。下村幸男監督のもと、小城得達とともにハーフバック(MF)として活躍、主に相手のキーマンをマークする役をこなし、特に八幡製鉄・宮本輝紀のマーカーとして有名だった。1965年から始まった日本サッカーリーグ(JSL)創設期には1965年から1967年の三連覇、1965年と1967年天皇杯優勝に貢献。
また1965年には大橋謙三ら東洋工業の選手他で編成された「アカシアクラブ」のメンバーとして国体優勝をしている。
一方、1962年には全日本(日本代表)に選出されるが出場は1試合のみである。
また、現役選手時代から請われて高校のサッカー部他を指導し、その一つ当時は弱小だった広島工業は1960年代後半から力を付け全国的強豪となった。
藤和不動産/フジタ時代 [編集]
1968年、広島出身の藤田正明の経営する藤和不動産が、サッカー部を新たに栃木県那須に創設。東洋工業の重松良典と共にチーム強化に貢献、その後に移籍してくる下村幸男監督と共に、自身はコーチ兼任選手として栃木県4部リーグのスタートから僅か4年でJSL1部に昇格させた。
1975年、フジタ監督に就任。前期終了後、チームは東京移転と同時にフジタ工業クラブサッカー部に名称変更。超攻撃型なブラジル型のチーム作りを行い、マリーニョ、カルバリオ、古前田充らを率いて1977年シーズンを史上最多得点(64得点)でJSL1部を初制覇すると1979年も優勝。1977年と1979年には天皇杯も2度制覇した。
JSL常任運営委員 [編集]
フジタの監督を退いた1980年からJSL常任運営委員に就任[1]。社内で厚生課長という比較的余裕のあるポジションに就いていた石井が森健兒とともに常任運営委員のリーダー格になる[1]。1983年に木之本興三がJSL事務局へ専任となって運営に関してプロ意識を持とうという雰囲気が出てくるが、石井は1984年から現状の体制のままでJSLを活性化する方策はないかと思案し、高橋英辰総務主事と森に相談の後、改革のための小委員会をいくつか立ち上げた。ここで具体的なアイデアが検討された他、選手のプロ化の議論などが話し合われた[1]。1986年に日本代表監督に就任したため、JSL常任運営委員の仕事はこの間離れたが、この後JSL内に開設したプロリーグ化を検討するプロジェクト(のち活性化委員会、開設準備委員会)に木之本らと共に中心人物として関わり、Jリーグ創設に尽力した[1]。
日本代表監督 [編集]
フジタでの手腕を買われ、1986年日本代表監督に抜擢される[2]。それまでの日本代表監督は大卒でしかも代表選手としても実績を持つ者という慣例があったが、森が結果を残せなかったことで、代表としての実績は関係なく、フジタの指導者としての実績が重視された[1]。石井は代表経験が1試合しかなく、しかも高卒で、さらにフジタという新興チームに所属という異例の抜擢だった[3]。目標である翌年のソウルオリンピックは、最大のライバル・韓国が予選免除で大きなチャンスであったが予選まで1年しかないため、泥臭くても勝つ事にこだわる守備的なチーム作りを行った。当時の日本代表は、中東勢はもちろん東南アジア諸国にも確実に勝てるレベルになかった。石井は「アジアではっきり日本より個人技が下なのは、カンボジア、ネパール、マカオぐらいだったと思う」と話している[2]。森孝慈前監督時代の中心選手・木村和司を外し、攻撃的選手は水沼貴史、原博実、手塚聡の3人だけ、都並敏史を守備的MFにして西村昭宏と並べ、奥寺康彦、中本邦治、加藤久、勝矢寿延、堀池巧の5人のDF、GK森下申一とし、攻守のバランスは左サイドバックの奥寺にとらせた。
アジア地区最終予選では、戦力的にやや上と見られていた中国との一騎打ちとなった。遠征先のヨーロッパで当時、主流になってきていた3-5-2システムを試行[2]、まだこのシステムがよく分からないため、当時マツダのコーチだったオフトや奥寺に教えてもらい、中国の2トップ対策にこの3-5-2で臨む[2]。抽選により日程は10月4日広州、10月10日東京で行うという最高の日程となった。チームがまとまっていない中国にアウエーで引き分ければホームで勝てる、との確信を得たが、3ヶ月も先の日程にも係わらず、日本サッカー協会に「その日は東西対抗のテレビ放送が決まってるのでダメ」と言われた。「それならどこの田舎でもいいから試合をさせてくれ」と嘆願したが、「ばかもの!お前らの強化費用はどこから出てると思ってるんだ!」と一蹴され、やむなくホームは東京で10月26日に行うことになった。完全アウエーの中国で原の千金ゴールで勝利。しかし予想通り3週間でチームを立て直した中国にホームで敗れ、本大会出場を逃し辞任した。この最終戦では初めて先制点を取られ動揺し打つ手がなかった[2]。なお石井の後任・横山謙三も3-5-2システムを継承している[2]。
長期政権を予定された森がサッカー協会と揉めて急遽の監督就任だったため、自分の思うチーム作りが出来なかったという気の毒な面もあった。本選出場を決めたら攻撃的なチーム作りをするつもりだったと言われている。当時、日本最高のプレイヤーと言われた木村を外して、守備的で面白くないサッカーをやった上での敗退には大きな批判を浴びた[2]。木村は小さい体を強くするため、筋力量を増やしたが、逆に動けなくなっていて、木村が動けないことでDFが崩れるというリスクを考え外したのだが、木村は当初「石井さんのためにやらにゃあのー」とチームを引っ張っていたため、今でも木村には負い目があるという[4]。後年Jリーグが出来た頃、「あの時、中国に勝っていたら日本のサッカーは、今もアマチュアのままだったでしょうね」と木之本興三に言われたという。
フジタ総監督~ベルマーレ平塚 [編集]
代表監督辞任後は古巣のフジタ工業に戻り、1988-89年、1989-90年シーズンは、石井総監督―アラン・ジレットヘッドコーチ体制で指揮を執る。1988-89年は終盤まで優勝争いに加わり4位、1988年第68回天皇杯準優勝。しかし1989-90年は11位と低迷しチーム初の2部落ちとなった。
Jリーグ発足後はベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)の取締役強化部長などを歴任。有力選手獲得などに手腕を発揮し、平塚を一時期強豪チームにした。
現在 [編集]
1998年からは石垣市親善大使に就任し、『石井義信杯少年サッカーリーグ』の開催など少年サッカーの普及・発展に務めている[5]。
2001年からFC東京のアドバイザーに就任[6]。練習グラウンドにも連日姿を現し、コミュニティラジオ局・調布エフエム放送の『FC東京サッカー中継』では解説も務めている[7]。一方、2004年から日本サッカー協会の技術委員会委員に就任するなど、現在も後進の指導にあたっている。
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【2010/11/18 22:23 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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